この文章は、私が現在執筆している本『折り紙論(仮題)』の序文です。折り紙の歴史や哲学を含んだ包括的な本になる予定ですが、現在多忙のため筆が止まっています。

日本人なら誰でも、「折り紙」という言葉を知っているだろう。言葉を知っているだけでなく、多くの人が子供の頃に折り紙をやったことがあるだろうし、家族や親戚に小さい子供がいれば、いっしょに折り紙で遊ぶことも多いに違いない。大人になってから趣味として紙を折っている人も、少なくない。

しかし、どれほどの日本人が、折り紙というものの全体像を知っているかと考えると、はなはだ心もとないといわざるをえない。各種の辞書や事典を見ても、不適切な記述ばかりが並んでいる。それもそのはず、折り紙を客観的かつ体系的に記述した書物は、これまで存在しなかった。そのせいで、折り紙については、誤解が常識として通用していることが多い。

たとえば、折り紙は日本の伝統文化だと思い込んでいる人が多いだろう。しかし、折り紙一般について語るときに「日本の」という形容詞をつけるのは、適切でない。もちろん、海外では折り紙そのものを知らない人も珍しくないし、それに比べて日本では、折り紙を折ったことのない人を探すのが難しいくらいなのだから、折り紙の本場はやはり日本だということになるだろう。だが、実際のところ、折り紙は日本独自の文化ではない。

一九世紀前半、日本でいえば江戸時代の終わりに、折り鶴は日本にはあったがヨーロッパにはなかった。一方、スペイン語で「パハリータ(小鳥)」、フランス語で「ココット(雌鶏)」と呼ばれる折り紙は、ヨーロッパにはあったが日本にはなかった。当時、日本とヨーロッパと、二つの折り紙の伝統があったのである。現在知られている史料を総合的に判断すると、日本の折り紙とヨーロッパの折り紙は、独立に発生した可能性が高い。

日本の開国とともに、東西の折り紙が融合する。日本の折り紙はヨーロッパに渡り、ヨーロッパの折り紙を大きく変えた。同時に、ヨーロッパの折り紙も日本にやって来て、日本の折り紙を大きく変えた。今日多くの日本人が「折り紙」という言葉で思い浮かべるレパートリーは、この東西交流の中で形成されたものだ。だから、日本人なら誰でも知っているような折り紙の中にも、ヨーロッパ由来のものが少なくない。日本で普通に折り紙といっているものは、本質的に日欧の雑種なのである。

ヨーロッパの折り紙は、日本ほど盛んになったことはないにせよ、脈々と受けつがれており、南北アメリカにも広がっている。さらに近年では、日本と西洋の折り紙交流もますます盛んになり、折り紙が世界の文化になりつつある。

最近では海外に行っても「origami」といえば通じることが多くなったが、このことは、折り紙が日本独自の文化であることを意味しない。「origami」という言葉は、一九五〇年代に、ニューヨークを発信源として人為的に広められたものであり、日本の文化である折り紙が世界に伝播したということでは、決してない。

折り紙に関する誤解はこれだけではない。日本でいちばん権威のある辞書は、折り紙を「色紙で鶴・風船などを折る子供の遊び」と記述しているが、ここには、よくある誤解が二つ含まれている。第一に、折り紙は色紙を使うと決まっているわけではない。第二に、折り紙は子供の遊びにとどまるものではない。

色紙は、今日では「折り紙」と呼ばれることが多い。文字通り、折り紙専用の紙というわけだ。正方形に切られていて、片面に着色してあるのが多い。多くの人が、折り紙を始めようとするときに、まずこのような折り紙用紙を用意しようとする。しかし、折り紙専用の紙が日本で作られるようになったのは比較的新しく、明治時代の終わりか大正時代のことだといわれている。それ以前には、折り紙といえば手近な紙を切って折っていた。

そもそも、現在一般的に売られている折り紙用紙は、必ずしも折り紙に適した紙ではない。先に、ヨーロッパの折り紙が日本ほど盛んにならなかったと書いたが、その理由の一つとして、日本に和紙が存在したということがあげられる。和紙は強靱かつしなやかで、紙に負担がかかるような操作をしても破れにくいし、丸みをおびた美しい形を作りやすい。実際、江戸時代から伝わる作品の中には、和紙でなければ折れないものがある。一方、折り紙用紙は、幼稚園で折り紙を教える必要性からヨーロッパで生まれたものだから、ほとんどの場合洋紙で作られている。普通の折り紙用紙で江戸時代の作品を折ろうとすると、破れてしまったり、きれいな形にならなかったりする。

紙選びは、折り紙の大切な一部分である。作品によって適した紙を選んだり、紙に応じて適した作品を選んだりするのは、楽しいものだ。すべての折り紙に適した紙というのは存在しない。和紙で折るときれいに折れる作品もあれば、アメリカ製の銀紙で折るときれいに折れる作品もある。また、同じ作品を折るのでも、紙を変えるだけで表情が変わってくる。折り紙だから折り紙用紙を使うと考えてしまうと、折り紙の可能性を狭めることになる。紙なら何でも折り紙の素材になりうるし、布や金網を折ったってかまわない。

今日では折り紙用紙が広く普及しており、日本ではコンビニでも売られているし、海外でも大きな都市なら容易に手に入る。正方形に切られた紙が売られているということは、便利である反面、新たな誤解を生んでいる。すなわち、折り紙では紙を切ってはいけないという誤解である。紙を切ることなく折り紙ができるようになったおかげで、はさみを一度でも使ったら折り紙ではなくなってしまうと考える人が出てきた。しかし、折り紙用紙を使う場合でも、誰かが紙を切っていることには変わりがない。折り紙は常に紙を切ることから始まるのだ。

折り紙用紙が普及しているせいで、折り紙は誰にでも手軽にできる遊びだと思われているかもしれない。そのことが、もう一つのよくある誤解と関連しているかもしれない。すなわち、折り紙は子供の遊びだという誤解である。

確かに、現状では、子供の遊びとしての折り紙が、折り紙の大部分を占めている。折り紙人口の大半は子供であるのだし、折り紙の本も、子供向けのものが圧倒的に多い。実際、子供でも簡単に始められるという間口の広さは、折り紙の長所でもある。しかし、間口が広いからといって、奥行きが狭いとはかぎらない。折り紙だって、つきつめれば子供の遊びの範囲を越え、芸術にまで達することができる。芸術として折り紙を実践している人は、世界中を見渡してもごくわずかであるが、徐々に増える傾向にある。

ここ何十年かの間に、新しい折り紙作品を創作する人、また折り紙を学問的に探求する人の数が、飛躍的に増加した。このような折り紙の創作・研究は、日本と欧米を中心として、世界中で行われている。そこで、あらためて「折り紙とは何か」という問いを発してみると、見解の一致がみられない。各人各様にさまざまなことを述べて、決して一つの意見にまとまらないように思われる。それはなぜかと考えてみるに、おそらく、パラダイムを異にするいくつかの折り紙が並存しているのではないか。

一口に「折り紙」といっても、その中には、時代的な差異、地域的な差異、そして基本的な考え方についての差異がある。それらの差異を捨象してしまって、折り紙すべてをひっくるめて「折り紙とは」と考えようとしても、たいした収穫はえられないだろう。そこで、本書では、以下の六つの折り紙を区別する。すなわち、日本の古典折り紙・ヨーロッパの古典折り紙・伝承折り紙・近代折り紙・数学的折り紙・芸術的折り紙の六つである。この区分は、多分に便宜的なものであるが、折り紙の世界を見渡すうえで有効な枠組みであるように思う。

「折り紙は日本の文化である」という考えは、日本の古典折り紙に限っていえば、おそらく正しいだろう。「折り紙は子供の遊びである」という考えは、伝承折り紙について述べたものだと考える限りでは、的を射ているといってよい。しかし、どちらの考えも、折り紙一般については、あてはまらない。折り紙一般について十全な記述をしようとすれば、おそらく、一冊の本でも収まりきらないのであろう。本書では、日本および欧米から集めた最新の研究成果をもとに、広く浅い概観にとどまらざるをえないが、折り紙の全体像に迫りたいと思う。